株価暴落の歴史

ブラックマンデーとは?大暴落が起きた背景や要因について詳しく解説

ブラックマンデーとは?大暴落が起きた背景や要因について詳しく解説

史上最大規模の株価大暴落として知られるブラックマンデー。

発生直後から、アジアやヨーロッパなど世界各国に広がり、世界同時株安を引き起こしました。

 

そこで今回は、ブラックマンデーとはどのような出来事か、その背景や要因について詳しく解説します。

 

ブラックマンデーとは?

ブラックマンデーとは、1987年10月19日にニューヨーク証券取引所で起きた史上最大規模の大暴落です。

この日が月曜日だったことから、世界恐慌を引き起こしたブラックサーズデーになぞってブラックマンデーと呼ばれ、「暗黒の月曜日」とも言われています。

 

そしてこの日、アメリカの代表的な株価指数であるダウ工業株30種平均の終値は、前週末に比べて508ドルも下落しました。

この下落率は過去最大である22.6%を記録し、1929年のブラックサーズデーの下落率12.8%を大きく上回る結果となりました。

 

そして、アジアやヨーロッパの各市場へと波及し、世界同時株安に陥ることとなったのです。

 

ブラックマンデーが起きた背景

1980年代初め、米国は財政赤字と貿易赤字、いわゆる「双子の赤字」を抱えている状態でした。

そして、1979年の第2次オイルショックによって失業率も高く、景気停滞と物価上昇が同時に起こる「スタグフレーション」も深刻化していました。

 

レーガノミクスによる再建

米国のさまざまな問題を受け、1981年に大統領に就任したロナルド・レーガンは、経済政策として「レーガノミクス」による再建を試みます。

 

  1. 軍事支出の拡大とそれ以外の支出の削減
  2. 所得税減税による貯蓄増加と投資の促進
  3. 産業や事業への規制緩和による生産性の向上
  4. 通貨供給量の抑制によるインフレ対策

レーガノミクスは、このような4つの政策を柱に進められ、レーガン政権はこれによって強いアメリカを復活させようとしました。

しかしこのレーガノミクスは、経済成長を高める一方で、米国の財政赤字を拡大させることとなります。

 

インフレ対策によって金利が上昇し、投資マネーが米国市場に流れ込んだことでドル高が進み、そのドル高によって輸出が減少。

その一方で輸入は増加となるなど、貿易赤字を拡大させる結果となりました。

 

この貿易赤字を解消するためにはドル安に誘導する必要があり、その対策として行われたのが「プラザ合意」です。

 

プラザ合意からルーブル合意、そしてブラックマンデーへ

1985年9月、ニューヨークのプラザホテルにおいて、米国・日本・英国・西ドイツ・仏のG5(先進5ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)による合意が発表されました。

これは、アメリカの貿易赤字を解消するために為替市場をドル安に誘導するというもので、「プラザ合意」と呼ばれています。

 

このプラザ合意によりドル安は進むことになりましたが、1985年8月末に1ドル237.1円であった為替レートが、1年後には153.63円になるなど、ドル安が行き過ぎてしまいました。

そこで、この行き過ぎたドル安に歯止めをかける目的で行われたのが「ルーブル合意」です。

 

1987年2月、パリの旧ルーブル宮殿で、米国・日本・英国・西ドイツ・仏・伊・加のG7(先進7ヵ国蔵相・中央銀行総裁会議)による合意が発表され、為替レートを安定させるための協調政策を決定しました。

しかし、ルーブル合意による協調政策は長続きせず、1987年9月、インフレ懸念が高まっていた西ドイツは、インフレ対策として金利引き上げに踏み切ります。

 

この西ドイツの金利引き上げから1ヶ月後の1987年10月19日にブラックマンデーが起こりました。

 

ブラックマンデーが起きた要因とは?

では、ブラックマンデーが起きた要因とはいったい何だったのでしょうか。

ブラックマンデーの引き金を引いたのは西ドイツの金利引き上げであったと言われていますが、そもそも米国の双子の赤字に要因があったとする見方や、自動売買プログラムの暴走により拡大したという見方もあります。

 

自動売買プログラムとは、ある一定の値段まで株価が下がると自動的に損切りされるプログラムのことで、設定した値段を下回ると、損失を最小限にするためにコンピュータが自動的に売り注文を出すというものです。

当時、投資家の間で普及していたということもあり、売りが売りを呼ぶ負の連鎖を引き起こしたと考えられています。

 

このように、ブラックマンデーが起きた要因を一つに絞り込むことは難しく、さまざまな要因が絡み合ったことによるものと考えるのが妥当でしょう。

 

ブラックマンデーからの回復

ブラックマンデーによって世界同時株安に陥ることとなりましたが、その後、どのように回復の道のりをたどったのかお伝えしていきましょう。

 

FF金利の引き下げによる資金供給

アメリカの中央銀行制度の最高意思決定機関であるFRB(The Federal Reserve Board)の当時の議長グリーンスパンは、FF金利をブラックマンデー前の7.25%から6.5%に引き下げました。

FF金利とは、フェデラル・ファンド(Federal Funds)レートのことで、米国の銀行が連邦中央銀行に預けている無利息の準備預金の過不足を調整するために、無担保で資金を借りるときに適用される金利です。

 

この金利の引き下げにより市場に大量の資金を供給することで、株価の下落を食い止める策を講じたというわけです。

グリーンスパンの就任わずか2ヶ月後に起きたブラックマンデーでしたが、この策により混乱は沈静化に向かうこととなりました。

 

サーキットブレーカー制度の採用

ブラックマンデー後、ニューヨーク証券取引所では、日本市場を参考にサーキットブレーカー制度を採用することになりました。

サーキットブレーカー制度とは、相場が一定以上の変動となった場合に取引を一定時間中断するもので、これにより投資家たちに冷静な判断の機会を設けることが目的とされています。

 

現在では、日本やアメリカ以外にも、ヨーロッパや中国など、先進国の株式市場で導入されるようになりました。

 

もっとも回復が早かった日本

ブラックマンデーの影響を受け、日経平均株価の終値は3,836.48円安の21,910.08円、下落率は14.9%とう過去最大の大暴落となりました。

しかしブラックマンデー後、日本銀行は利上げを検討していたものの、FRBが資金供給を行っている状況での利上げは困難なため金融緩和を継続します。

 

そして、1986年以降に日本がバブル経済に突入するとともに株価は上昇し、1988年4月にはブラックマンデーの下落分を回復させるばかりか、1989年12月には史上最高値を記録しました。

ブラックマンデー発生後の日本は、金融緩和政策によってもっとも早い復活を見せたのです。

 

まとめ

今回は、ブラックマンデーの起こった背景や要因についてお伝えしました。

ニューヨーク株式市場で起きた史上最大の大暴落は、世界各国に大きな影響を及ぼす出来事となりました。

 

今後、このような大暴落が起きないとも限りませんので、資産を守る方法について個々に考えておかなければならないと言えるでしょう。

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